忘れられた子供

先生、奴はすっかり狂ってるんです。おれには分かるんだ、生かしちゃならねぇ。え、落ち着け? なんだってそういうことを言うんだ。まだこの辺をうろついてるんだぞ! ほら、奴だ。言わんこっちゃない。あの高そうなスーツを着て濁った色の金髪をきっちり整えている、いやみな、自信満々で、にやけてる奴だ。見えないはずはないよ。だけど先生、皆おれにいつも同じことを言うんだ。お前は疲れているんだよ。ああ、神よ!このあわれな子をお救いください!ってな。身なりばっかりこぎれいな親父も母親も兄貴も、ペド野郎のくせに人畜無害ですって顔してへらへらしていた神父も、怒鳴るか猫なで声でなだめるしか能のねえ教師も皆だ。連中は一体どこに目がついてるんだ?十字架さえ切ってりゃ救われるってすっかり信じ込んでいるんだ。もし神様って奴がいるなら、とっくにおれのことを救ってるはずだぜ。あるいは見捨てたのかもしれん。もう手の施しようがねぇってな。多分そいつだって人間と同じで完璧じゃないんだろうよ。連中からすれば、おれはきっともう手遅れなんだろうな。乗り越えられる試練もへったくれもねぇ。まったくイかれてるぜ、お前ヤクでもやってんのか?なんて言う奴もいたっけ。そっちの方がまだマシだ。笑えるからな。

  私は、あの下卑た男が嫌いでね。どうも私をいたく怖がっているようだが。無法地帯と言っていいほどの地下街に出入りして、身なりが汚く、スーツなぞ着ようともしない。煙草も吸う。1日2箱ぐらいは平気で開ける。言葉使いといい振る舞いといいなにかの冗談としか思えないね。私?私のことを話してほしい?ええ、いいですよ。
  自慢じゃないが、私はなにをするにつけても筋がいいんだ。なにも初めからそうだったわけじゃない。父も母も厳格だったせいかな。いつでも完璧であることを要求された。勉強からスポーツ、音楽、絵画、料理、礼儀、服装にいたるまで全てね。知識と教養は武器だ。習得させる方法はともかく、そういう意味では彼らに感謝している。ただ、あの子が学校でいじめられていた時守る術は自分で身につけた。弱くて脆くて純粋な子なんだ。なにも知らない子なんだ。連中はあの子をサンドバッグとしかみなしていなかった。私と組むのは嫌そうな顔をしていたが、あの下品な男もその時は協力しましたよ。なに、連中を殴ってペーパーナイフを喉元に押しつけただけです。当然の報いを受けさせただけだ。あの程度で収まったことを感謝してもらいたいぐらいだ。

  えっと、僕は思うんだ。うん。先生は僕にとって、本当にやさしくしてくれた人のひとりなんだ。皆いつも僕を邪険にする。ウジウジしてて、苛々するんだって。お前は弱すぎる、強くならなくちゃだめだって、父さんがいつか怒鳴ったっけ。いつもはやさしい父さんなのに。僕、ガリガリでまるで白いアスパラみたいに痩せてたから学校でいじめられていた。女みたいな顔だって。帰ってくるたび、どこかしら痣ができていたから、転んだって嘘もだんだん通用しなくなった。つい言っちゃったんだ。放課後学校で殴られたり蹴られたりしてるって。そうしたら、次の日もっと手酷く奴らに殴られた。我慢の限界なんかとっくに来てたのに、泣いたことなかったよ。だけどあの日は痛くて痛くてたまらなくって、とうとうダムが決壊したみたいに涙が止まらなくなって、それで父さんに怒られた。それでもおれの子か、って。父さんは若い頃ラグビー部に所属してたんだ。父さんのチームはこの辺りの地区では1位か2位を争うくらい強かったらしいよ。よく自慢された。お前も強くなれ、鍛えれば強くなれる、努力しろって説教つきでね。就労先を探し始めた頃から、こぎれいなスーツを着て、すっかりありふれた中流階級の家庭の父親って感じになったらしいけど。母さんもやさしい時はすごくやさしかったけど、マナーには神経質なぐらいうるさかった。勉強もそうだったな。お行儀の悪い子には夕飯はありません、Aを取らない子はうちには要らないの、って。一度怒りのスイッチが入ってヒステリィを起こすと蒸気機関車みたいに止まらないんだ。母さんは兄さんを見習えって僕によく言ったな。兄さんは頭がすごくよかった。スポーツでもなんでもできたよ。僕よりかなり年上なんだ。兄さんは時々、父さんと母さんに内緒でキャンディとかターキッシュ・デライトとかお菓子をくれる人だった。僕が学校でいじめられてるって知った時、乗り込もうとしたな。父さんや母さんに怒られてる時も、庇ってくれた。父さんや母さんと違って、どんな時もやさしかった。だから大好きだ。もしかしたらいじめっ子が学校に来なくなったのも、兄さんのおかげかな。今思い出したけど、そういえば、兄さんの様子がおかしかった時が一度だけあった。僕は毎週日曜日に教会に兄さんとお祈りに行くんだけど、その日はひとりで教会に行った。そうしたら、いつもにこにこしていてやさしい、兄さんと同じぐらいの年の神父さんが、僕を普段寝泊まりしている部屋に上げてくれたんだ。本を読んだり、いつもと違って怒られずに勉強したりして、楽しかった。神父さんはお菓子もくれた。お茶を飲み終わって、別の本でも読もうかって思っていたら、神父さんは急に僕に近寄ってきて、僕をやさしく抱きしめた。石鹸のいい匂いがした。だれかに抱きしめられるなんて久しぶりだったから、嬉しくてそのままじっとしていたんだ。すると背中の神父さんの手がだんだん下の方に伸びていったんだ。なんだか妙な触り方だった。気持ち悪かった。神父さんにやめてよ、って言ったら、僕のおでこにそっとキスをして、なぜか泣きそうな顔をしてごめんね、って言った。帰って兄さんにその話をしたら、眉間にしわを寄せた。それからすこし鼻を啜りながら、あの人もそんな目でお前を見ていたのか、って呟いた。おれも人のこと言えないんだ、すまない、って潤んだ目で言って僕を抱きしめて、僕の頭をなでてくれた。先生は、兄さんと同じぐらいやさしいね。

  あいつは普段小さくて汚ねえホテルだかなんだか分からねえようなとこで寝泊まりしてるんだが、時々1ヶ月かそこらいなくなることがあるんだ。それで突然ふらりと帰ってくる。同居してるわけでもないのにどうして知ってるのかって?あいつは毎日決まったダイナーでメシ食うのさ。人のいいオヤジがいて、ミートパイとコーヒーが美味い店だ、おれもそこで毎日食べてる。そこに来なくなるから分かるんだ。一度、どこに行ってるんだ?って聞いたことあるんだ。そうしたら、分からない、気がついたらホテルにいるって言うんだよ。おれは酒の飲み過ぎかヤクでもやってんのかなって思ってた。妙なことも言うからさ。誰もいないところ指差して、奴が来る!って怯えるんだ。お前には見えねえのか!って。

  ある時真昼間に見たんだ、いつものようにどこかにいなくなった後だよ。普段はしわくちゃのTシャツとぼろっちいジーンズ履いてる、耳はピアスだらけの奴が、そん時は高そうな灰色の背広着てぼーっと川べりに座ってたんだ。ネクタイは緩んでないし、第1ボタンまできっちり止めてあった。もちろんピアスなんかしてない。でもどう見てもあいつだった。それが証拠にピアスの穴は開いてたからな。声をかけたら、なんて言ったと思う。私に何の用かな、って言ったんだ。まるで別人だよ。なぜってあいつは地下街にいる連中やおれと同じような喋り方をするんだぜ。それが、私と来たもんだ。おれのことも全然知らないって言うんだ。クラウスじゃないのかって聞いたら、あの男は私が苦手らしいね、だとさ。あいつそのものの顔でそう言うんだ。双子なのかと思ったよ。それで例の喫茶店にいつもの格好で来た時、お前双子なのか、って聞いた。随分毛色が違うなって。あいつ、違うって答えたんだ。兄貴はいるけど、顔はそこまで似てねえって。とうとう気が狂っちまったかと思った。

  あいつ、病気なんだろう。だったら、治してやってほしい。治すものじゃない、あれもあいつの一部だって?そうか。大丈夫だよ。あいつはいい奴なんだ。本当は地下街に、あんな泥沼みたいなところにいるような人間じゃない。これでも腐れ縁なんだ。ガキの頃にどんな酷え目にあったのかはおれは知らない。ただ、いま苦しんでいるのなら、すこしでも楽にしてやりたいんだよ。おれにはしたくともできないから、頼むよ先生。