世界は塵で出来ている

あの日の朝は、行ってきますのかわりに、さよなら、って言わなきゃいけない気がした。

兄貴は、マテウスは反吐がでるほどおれを甘やかした。それがなぜかを知った時にはすっかりクズになってたよ。地下街の小さいホテルで寝泊まりして、毎日馬鹿みたいに煙草を吸って、時々酒びたりになるんだ。働きこそすれ、まあ、ブルー・カラーってやつだ。毎日埃まみれのツナギかよれよれのTシャツとぼろっちいジーンズだよ。兄貴はどっかの会社で成功してるみたいだ。プロジェクト・リーダだってさ。てんで違うよな。なぜかって?そんなのおれが聞きたいよ。気がついたらびっくりするぐらい差が開いてた。いや、そもそも兄貴はおれよりずっと頭がよかったし、何でもできたんだ。いつも親父や母親から尻叩かれながら追いつこうと必死だった。その分兄貴はおれに甘かったんだ。言ってみれば兄貴はガス抜きさ。親父や母親に内緒でプリンとかクッキーやなんかのお菓子をくれたり、飛行機のおもちゃ買ってくれたりした。本当だったら、親のするようなことだよ。年が離れてたからな、実際もう一人の親みたいなもんだった。少なくともおれはそう思ってた。けどな、兄貴の方は違った。兄貴はおれを愛していたんだ。兄弟としてはもちろん、男としてもな。そうだよ、兄貴はホモだ。それも実の弟にな。ショックだったよ。あの神父と同じでペドだったんだ。本人に直接聞いたら違うって言ったよ。お前だからだって。なんだそれ。どうしようもないだろ、そんなの。おれがいるからダメだってのか。兄貴は嫌いじゃねえ。ただ、親として兄弟として好きなんだ。分かってからおれは兄貴を避けた。おれの暮らしぶりを知って居場所を探してたみたいだけどな。地下街の横のつながりってのはすごいよ。だれかが来たってのがあっという間に分かる。特に兄貴のようなバリバリのホワイト・カラーがやってきたら、すぐ噂になるんだ。ある程度知り合いができると、聞きもしねえのにバーかなんかで奴らが教えてくれる。その度にホテルを変えた。この辺じゃこぎたねえホテルなんかいくらでもあるからな。職場もちょくちょく変えるし、飲む場所も決まったところには行かない。変えなかったのはオヤジの店ぐらいだな。ミートパイとコーヒーがうまい店だ。オヤジってのは父親じゃない。無口で人のいいおっさんだよ、いや、ジジイかな。あれだけはどうしても行きたくなるんだ。たとえ兄貴に会うかもしれないとしてもな。
それでかな。たぶん、オヤジの店を変えられなかったせいなんだろう。とうとう兄貴に見つかっちまったんだ。暢気にミートパイなんか食ってるんじゃなかったって後悔したよ。兄貴はおれのピアスの穴を見て、心底嫌そうな顔をした。突然顔を見せなくなったから、心配したんだぞ、だってさ。なにかあったんじゃないかと思ったぞ、って。一体どの口が言うんだ?兄貴のそばにいる方がよっぽどなにかありそうだ。帰れと言ったら、お前を連れて帰るまで絶対に帰りはしないってごねた。エドは呆れてたよ。なんて面倒見のいい兄貴なんだ!って。酒を飲み終わるまで帰るつもりはなかったから、我慢くらべみたいになっちまって、結局おれの方が酔いつぶれた。あの後の記憶がまったくない。

その夜、白い生きものが蛇みたいに絡みついている夢を見た。おれはカーテンの隙間からそれを覗いている。しばらくすると、1匹がこちらを向いて、ニイと笑った。そいつは、おれの顔をしていた。それから後ろのもう1匹の顔が見えそうになる。すると、その部屋がまるごと音もなく崩れ、塵になって、そこで目が覚めた。額には汗をびっしょりかいていた。マテウスがシミひとつない白いハンカチでそれを拭っていた。ご丁寧に水も用意していて、悪い夢でも見たのか、と眉根をよせて顔を覗きこむ。ガキに言い聞かせるみたいだったから、蒸し暑かっただけだと答えた。おれの額をなでる手が気持ちよかったなんて、思っちゃいない。今さら思うがはずない。兄貴はホモだし、おれは犬じゃない。だけど、どこか懐かしかった。やめろよ、と言ったら額にキスをされた。むず痒かった。この時は弟に対してしたのか、自分の好きな男に対してしたのか、それはわからなかった。そのまま兄貴は台所に向かった。牛乳を温めていた。テーブルにはいつ用意したのか、上でバターが溶けて広がっているトーストと、半熟の目玉焼き、それからレタスと豆とルッコラかなんかのサラダがのっかっている。そばにはなぜかウイスキィみたいな色した蜂蜜の瓶があった。なにに使うんだって聞いたら、ひとさじ取って溶かしてみろ、って牛乳の入ったコップをおれの前に差し出した。甘いものは好きじゃねえ。そう言ったら、お前子どものころは好きだったろう?変わってないって、エドが言ってたぞ、って。兄貴はうすく笑った。まるで母親みたいに。さっさとツナギに着替えようとしたら今日は日曜日だぞってまた笑う。このまま出かけないのは癪で、オヤジの店にでも行こうと決めた。なるべく身軽でいたいから荷物は少ない方だ。煙草と財布。あとはハンカチ、母親に散々キレられて身についた癖だ。そういえば母親は荷物がやたら多かった。遊びに行くにも仕事に行くにも旅行するみたいな量を持っていく。女は馬鹿みたいに荷物が多いけどなにをそんなに持っていくんだろう? 玄関に向かったら、兄貴がどこ行くんだって言った。関係ないだろ、って答えたら、一緒に出かけようって言い出して、いつものよれよれのTシャツとぼろっちいジーンズから兄貴の高そうなスーツに着替えさせられた。ピアスも全部外された。たまにはいいだろうってさ。どこへ行くのかと思えば、こぎれいなレストランに連れて行かれた。ひとつひとつの量が少なくて高そうな料理が出てくるようなとこだ。とにかく落ち着かなかった。そんなに持ってないって言ったら、気にしなくていい、って。それからオーダ・メイドのスーツを仕立てに行った。使わねえよ、って言ったら、1着はあった方がいい、って。その後吊るしも選んだ。もともと生クリームなみに甘い兄貴だけど、それにしたってずいぶん兄貴に金を使わせたから、なにかあるんじゃないかと疑った。本当に妙な日だったと思う。兄貴の部屋で朝目が覚めたなんてことはガキの頃以来だったし、最近じゃ会うことすらそうそうないから、まして一緒に出かけるなんてことはなかった。
帰ってきてから、慣れないスーツは窮屈でしょうがなかったから、寝室でとっとと脱いだ。蒸し暑くてシャツに手をかけた時、背中に兄貴の視線を感じた。普段なら上半身見られたぐらいじゃなにも思わないんだが、視線が熱っぽいというか、ちょうど今朝の蜂蜜みたいになんとなくねっとりしてる感じがしたから、ぞっとした。やめろよ、って睨みつけたら、いつか見たような、なんだか泣きそうな顔をしていた。兄貴はそのままおれに近づいてきた。首すじに息がかかるぐらいに。それで唐突にこう聞いてきたんだ。お前のピアス・ホールは誰が開けたんだって。ほとんど自分で開けた、エドに開けてもらったこともある、って答えた。兄貴はおれの耳たぶを指でなぞってつぶやいた。なぜエドに開けさせたんだ。兄貴の声は静かなようでいて、機嫌が悪そうに聞こえた。今回はなにがスイッチなのかわからなかった。けどこういう時は本気で怒っているんだ。ガキの頃に学習してる。たぶん、嘘をついても本当のことを言ってもどのみち怒られるような気がしたんだが、エドに揃いのピアスつけようぜって言われたことを素直に話した。驚いたよ。その瞬間兄貴はおれの穴だらけの耳たぶを食んだんだ。どういうつもりだ!って怒鳴ったよ。兄貴は手でおれの口を軽く塞いで、今日は黙っていてくれないか。そう小さな声で言った。耳から離れた兄貴の舌が首すじに這って、全身の毛が逆立った。なのにどうしてだか拒めなくなった。

その先は思い出したくない。あの夢と同じだ。うす暗い部屋で、2匹の白い生きものが、怪物が、蛇みたいに絡み合っていた。あの日から兄貴は家族じゃなくなった。唯一の家族が、塵みたいに消えてなくなってしまった。呆気ないもんだな。